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第九話:ファインダーからのぞく事実

今年の短い夏休みは屋久島にした。縄文杉までぜひ行きたかったのと、カヌーをしたかったのと、大好物のアップルマンゴー&パッションフルーツをたくさん食べたかったからだ。

カメラでたくさんの縄文杉や息子を撮った。動画でも静止画でも撮った(下記参照)。



しかし、撮りまくりながら「あ、またやってしまった。。」と思った。

せっかく縄文杉がそこにあり、すばらしい森の中にいるのに、ファインダーごしにしかその場にいない自分に気がついたのだ。

撮ることにいっしょうけんめいになると、目の前にあるモノやヒトを体全体で五感で感じることがおろそかになる。つまり、「見ているのに見えていない」状態になる。

こういうことはこれまでも何度かあった。ホエールウォッチングをしているとき、実践研究仲間がポスターセッションしているとき、息子の運動会のとき、決定的瞬間はいつもファインダーごしだった。



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学習場面で子どもたちが見学や取材に行ったときはどうだろう?せっかくの体験のほとんどすべてを体で感じないで、撮影に終始する(させられる)ことはないだろうか?持たされた機器の扱いにふりまわされ気をとられて、何がその場で起こっているのか、結局はわかっていない、充分に感じていないということはないだろうか?

もちろん、取材活動のときにビデオカメラやデジカメ等のIT機器を使うな、と言っているのではない。子どもたちの「わかる」や「知りたい」をサポートする強力なグッズであることは疑いない。



しかし、それを最初から最後まで「使わせるのが見学や取材ではあたりまえ」という場合が特にIT活用バリバリ教師では陥りやすいのも事実だ。対象のモノ・コト、ヒトに触れることが目的なのか、IT機器を使いまくるのが目的なのかがわからなくなっている場合も少なくない。

状況によって子ども一人ひとりによってケースバイケースであるはずだ。今はどういう場面なのか、この子にとってどうなのか、この機器の特性は何なのか、子どもたちにとって慣れているのか、見通しとさじ加減を考慮する必要が教師にはある。

最終的には、子どもたちが自分でIT活用(「活用しない」という判断も含めて)の場を選択できる力をつけることが重要なのだから。




コメント (7)

きたがわ@和大:

こちらでははじめまして。和歌山大学学生のきたがわです。
この記事を読んで、高校時代、授業でビデオを見るとき耳で「みていた」のを思い出しました。小論文を使って大学受験をするつもりだったので、情報という情報を全部自分のものにしようとして、ビデオで流れるのナレーションから内容のキーワードを聴き取って必死でノートにメモしていました。
今は文字ではなくてデジカメを持ち歩いて、メモ代わりにしています。その画面を見れば内容を思い出せるようなショットを撮っておくようにしています。
ただいつも肝心なところを撮影できないんですよね。感動的な場面とかイイプレゼンしている場面に遭遇した時って、心がその状況に入り込んでしまって、デジカメを持っていることを忘れてしまいます。でも、意外に一番記憶に残っているんです。下手するとその部分しか覚えてないというようなことも・・・。

海道@御園小:

「あ~私はなにやっているんだろう」カメラを片手にそう思ったこと思い出しますね。だから「今日は‘めかめら’!」と心に決めて出かけることもあります。何を大切にしたいか、なんでしょうね。 今この時を大切にしたいからシャッターを切ってしまう、というのもそうですよね。
 こんな犠牲(?)のうえに撮られたものも含めて、これまでたくさんの映像(写真やビデオ)をみせてもらいましたね。いろいろな実践。あっこの「ひとりごと」のはじまりにはスイス!でしたね。映像は、私には別の世界への窓です。見せてもらえる有り難さを感じています。
 

きしもと:

こんにちは。
中川先生。屋久島に行っておられたのですか?
私は隣の種子島に行っておりました。
そこでなんと私もシーカヤックなるものを初体験。本当に日常を離れた貴重な時間を過ごせました。でも、もうすぐ日常に戻らなくてはなりません。
忙しいなかの休日だから楽しめるのでしょう。
秋からもよろしくお願いします。

偶然ですが、「カメラ」について考えていたところでした。家族でディズニーランドに行ってきたのですが、愛用のデジカメがちょうど故障したのです。「めかめら」で過ごしました。インスタントカメラを買おうかとも思いましたが、娘二人は「写真なんかとんないでいいから、遊ぼう!」ということでした。子供たちの目的は「思い出の写真を撮ること」ではなかったようです。

ありた@鳥取:

カメラ越しに見る時はシャッターチャンスを探っているときなので、目的が全然違ってしまいます。特にお気に入りのカメラを持ったときなんかは、もうどういう絵になるかのほうがついつい気になってしまいます。でも、最近は佐藤さんと同じ「目カメラ」が増えました。授業の記録は「目カメラ」では困るので、気がつくと記録写真がないことも・・・あちゃ~。子どもの写真も撮ってやってないなあ。

カメラを持っているとき、切り取ろうという意識があります。自分か、誰かか、あとで見せるには、という感覚が働きます。それを切り取る視点は大事だと思うのですが、どっぷりとその場の体験に浸るには、目カメラ、体カメラも、大事ですよね。う~ん、難しい。
その場にどっぷりと浸ると、シャッターチャンスを逃すこと、たびたびです。でも、それに浸らないで、シャッターを押すってのも、ある種の冷徹さがいるような気がしています。(いいのか悪いのか分かりませんが。)

ヒロタ:

いつの頃からか、思い出に残したい「お出かけ」のときには、カメラを持たないようになりました。“めかめら”ですね。後でそのときのことを思い出そうとしても、カメラで撮った景色しかどうしても思い出すことができないことに気づいたからです。
子どもたちがITを使う授業に、このことを当てはめて考えたことはなかったので、本当に「目から鱗」状態です。使うことが目的ではなく、「選んで」「使って」その次が大切だということを、改めて肝に銘じたいと思います。ここに来てよかった。
ところで、他の記事へのコメントをここに書いてはいけないのはわかっているのですが(すみません)、先生はもっとずーっとお若いと信じていましたので、ちょっと、いや、すごくびっくり致しました。お誕生日おめでとうございます。(第十話)

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2004年08月15日 00:13に投稿されたエントリーのページです。

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